日和佐城

別名-  付近住所 徳島県海部郡美波町日和佐浦 現在-
2009/3/28 碑・案内板・模擬天守アリ 日本城郭大系


日和佐氏 城山神社 由来記
 当地は、平安時代に「和射郷」の中心となり、鎌倉室町時代にわたり「日和佐庄」と呼び、安土・桃山時代(天正初期1570年代)にこの地の豪族日和佐の後裔、日和佐肥前守が長曾我部勢の侵攻を防ぐため、標高60メートルのこの地に城を築いたとされている。
 天正10年頃長曾我部勢の侵攻により落城し、主将の日和佐泉守一族は、軍門に下ったが住民はこの地を城山と呼びまた日和佐城祉として親しんできた。当時は東西が40間、南北が22間あり石垣も処々、昔を偲ばせるものがあったが、今は新日和佐城となっている。
 城主肥前守が村人のためにとこの地に権現様を安置した。当時参拝者は船で川を渡っていたがある時船頭が渡船を断わったところ、にわかに腹痛をおこし苦悶に耐えかねて権現様に祈るとたちどころに痛みが快復した。それ以後船頭は断る者なしと伝わる。また村に悪疫が流行の際には祈祷すれば治まり、安産や母乳を祈願すれば授かり、爾来服痛・豊漁はもとより、近時入学や就職試験合格の祈願など、神助の奇跡の顕現に驚いている。
 参拝する者が年とともにふえるため、新日和佐城の築城とともに、遷宮をなしたものである。
「願いごと一つにきめて拝むれば城山神は我を救わん」